murasaki-amejisuto’s blog

PUNK NEWWAVE NEWROMANTICS 紫雨慈IST

Mercoledi 15 Maggio

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猫(/_\)


織田信長(「そんな生き方をして楽しいか!?」あの人ってほんとにそういう事、言うんですね。
織田信長が住んでいた金華山岐阜城の直下に2年間住んでいた私は、まだ小1か小2で毎日何者かに戦いを挑まれるような殺伐とした日々を余儀無くされていた。
それは私だからではなく、そこが、未だに絶大な人気を誇り、あのような醜聞に終わった織田信長の城下町だからなのでしょう。
昔は気付かなかったけれど、何の関係も無さそうな白人観光客ですら顔をしかめる位悲しみに包まれていて、死んだ人は織田信長でも生き返らないのに尚、誰かなんとかしろよと焦燥し続けているような町です。
だから岐阜の城下町は生モノのように息づいて見え、二条城や姫路城周りでも廃れていそうな武具や馬具や火縄銃の専門店が有りそうだし、海苔屋さん、鮎の佃煮屋さん、あられ屋さん、蜂蜜屋さん、肌着屋さん、小間物屋さん、仏壇屋さんみたいな呼び方が出来るようなお店が、今もなんとか商店街を形作っているように思います。
当然、住んでいる人は織田信長の家臣、縁者、子孫でしょう。そうでなければあんな可哀想な所をわざわざ選んで住む理由は有りません。斎藤道三の家臣や子孫の方もいらっしゃるかと想いますが、このように、改まってしまいます。
そして織田信長天下布武は最高だと思います。が、天下統一には麗し過ぎましたね信長は。
クラスに織田くん(仮名)とメーテル(仮名)が居まして、空前絶後の美形顔なんで、信長の城の下からはたった2年で引っ越したのに、私は何十年も幻影に苛<サイナ>まれました。余りに酷かったので彼らには近年連絡を取らせて頂きました。嬉しかったです。
岐阜顔の特徴として細面<ホソモテ>がありますけど、細面に大きい目が付いていると、とてつもなく大きい目に見えますよね。しかもなんか寂しそうで、楽しい時にも時折浮かび上がり、でももし彼らが信長に関係のある人達なら、私を救ってくれた事も有るかなと今は思います。だって信長は視聴率を稼ぐ、三大将軍の一なのだから。
メーテルは美人なだけでなく身長があり気位も高くて私を見下し勝ちでした。
でも私達は仲良しでよく遊びました。メーテルと、岐阜駅から金華山岐阜城へ続く伊奈波通りの車や路面電車を訳もなく見送っていた日もありました。私は無意識に織田信長を待っていたのかも知れません。この日の事はメーテルが覚えていたのです。でも心配は近年解消しました。メーテルの家の前に、長身で端正な信長お父さんが立っていたからです。
クラスには、やはり「この人の顔何?」というくらいに美しい織田くんも居ました。私は織田くんの顔に非常に興味を持ち、四六時中見るようになってしまいました。そして遂に授業中担任に、「織田くんの方ばかり見やすなよ。」と注意されてしまいました。当時はヒッピー全盛で、私には追い風に思えていたのに見透かされ、またその女名物教師のせいで目立ち始めていた私は屈服しました。授業中は諦め終鈴と同時に織田くんを見たら、織田くんは瞬時に「先生とあんたのせいで俺は全然面白くなかったよ。」と辛辣に顔を背けたのです。「そんな顔を準備して待つとは残忍な。私は織田くんじゃないから先生に反抗出来ないもん。」と、とても情けなくなりました。
岐阜県は海に面していないので、瀬戸内海に親類を持つだけで私が織田信長と同じ平家筋に見えるのか、担任の名物女教師は私をよく看てくれました。だけどその日から織田くん迄が、「じゃあ俺みたいに威張れるようにしてあげるよ。」と言う流れになるとは思いも寄りませんでした。
「これからはあんたが俺を見るんじゃなくて、俺があんたの視界に入るようにするから。」凄い言い種だけど、私は次第に羨望の的になり、戦国人脈図のようなクラスでビクビクする事が減ってきました。最終的には私は織田くんの奔走を、「はい良くできました。」ぐらいにしか思わなくなっていました。
しかし、織田信長には所詮無理な話だったんですね天下統一は。確かに当時は子供が沢山居て、市街地の小学校は何処もクラスに44,5人児童が居て、各学年5,6クラス以上有るのが普通でした。だけど金華山岐阜城の真下の小学校ならば、1クラス45人位、一人残らず織田くんに従うべきではないでしょうか。でも織田くんは、思うところの私を、正直完璧には庇<カバ>い切れなかったんです。
実は私にも、「お前が出来ないなら儂<ワシ>がやる。」という闘争心があり、意気込んだ日もありました。その正体は、貿易や美術的センスに長け豪奢なので人気は有るけど、負け組の平氏ではなく、源氏や新免宮本武蔵古代ローマ人への憧れかも知れません。
こうなると、本物の織田信長も降臨、参戦して参ります。「残忍は美徳だ。決して騙されるな。」と檄を飛ばします。私は裏山でせっせかせっせか残忍な事を考える暴力少女になっていきました。
古代の悲劇皇子、倭建命<ヤマトタケルノミコト>、大友皇子<オオトモノミコ>や、各地の戦国武将達も次々と集結し、ラジオ体操等をしていた裏山は、すっかり荒れ果ててしまいました。
現代社会に於いて、誰も織田尾張軍を率いて天下取りをする事は出来ません。でも私は、織田信長が、人生を心に思い描くまま存分に生きたことを真似したいです。そういう意味では私にとって織田信長は人生の啓発者、啓蒙家です。
織田くんや織田信長のお蔭で、私は助かったり、優遇される事も少なくなかったです。特に城下町と呼ばれるところでは何処でも、私が遠慮しても、「そんな事をしたら、私が嗤<ワラ>われます。」などと宣<ノタマ>われ、正に「マジか。」です。
織田信長の人気のお蔭で、私も段々他の人に対して「そんな食べ方をして美味しいか!?」、「そんな服を着て嬉しいか!?」とか言えるようにもなりました。
私を含めた程度の低い小学生、ニートな十代ヒッピー、祭りでの見世物小屋、こんなのも、織田信長の城下町じゃなければただ、あの辺は下品でガラが悪いからで済むのに、そうだから、ヤバかったです。でも、西宮の甲子園が最高町なら、岐阜の城下町に住んだことはこのように人生の大傑作でした。15年前京都の阿弥陀寺に、遺骨は即座に盗掘されたでしょうけど、織田信長と殉死した家臣のお墓が在り、森蘭丸、坊丸、力丸三兄弟が源氏だということを知りました。不謹慎だけどほっとする人は多いです。今でもたまに岐阜駅に降り立ち、懐かしい伊奈波通りを歩きます。私はその頃から親より先生を頼りにしていた為、思い出は自分に関する思い出のみです。岐阜の商店街は格調高くて屋根が付いています。でも行く度に岐阜は寂れ
ています。屋根から畳二畳分くらいの大きな布に描かれた絵が、1.5m置きに40枚程掛けられている時があります。小学生や中学生がクラス皆で描いたもので、一見壮観です。織田信長が平家筋らしく、昔から絵画に力を入れている地域でした。絵に関しては相当注文を付けられました。もっと派手に描けだのなんだの何だったんだろう。ショボくれた絵が40枚、風に棚引きパタパタと音を立てて翻り、悲しみを沢山思い出させます。(/_\)


覇気(/_\)


体力(/_\)


好材料(/_\)


バス旅行(/_\)


薔薇の薫りの嗅ぎ比べ(/_\)


錦鯉のいる池(/_\)


どんな人もいつかは死んでしまう☆



We Wish We Would Make Good Use Of Our Life.



Noi Vorremmo Vivere Significativamente.