かわいいトモちゃん ❮ほんの10年前迄、野良猫って糞尿が臭いっていうだけで毒殺されることがあったんです。
お陰様で今はそれは大事<オオゴト>として扱われるようになりました。
猫は小さい動物だけど、3才児位の理解力が有るので、殺傷はOUTです。
かといって、私や動物愛護団体が、人ん家などにもやむ無くエサを置いているのはOUTじゃないのかな。
よく見ていると人ん家はやや柔軟化し野良猫をアダ名で呼んでくれるようになったりする場合も有ります。
本当は私も動物愛護団体もそんなことをしたくないんですよ。
何度か「エサをやるな!」と言われたり、貼り紙をされましたけど、お腹を空かせた猫にエサをあげていたのをやらなくなると、猫はまたエサを食べられなくなります。それが可哀想だから私も動物愛護団体も、寛容になって欲しいと願うばかりです。
私が今回抱いているトモちゃんはそんな中で16、7才迄生きて、この写真を撮ったのは今年の6月5日です。トモちゃんはいよいよおばあちゃんだから、写真を撮っとこうと思ったのです。
そうしたら白茶のブチ(この配色はだいたいオス)が「トモちゃん元気やで。」「なっトモちゃん!」と自分に言い聞かせるように、トモちゃんの肩を叩いたり、トモちゃんにおでこゴッツンをしました。
私は内心「ムリムリ。」と思うくらいでしたが、8月2日に見に行ったら、やはりトモちゃんは亡くなったのか所定の場所に初めて居らず、人ん家に作ったトモちゃんの寝床に白茶のオスが入り込んでいました。トモちゃんは天国でも一人じゃなくてよかったよと思いました。
「トモちゃんとずっと一緒だよ!」
ありがとうナッちゃん。(このオスはナッちゃんにします。)
このように猫とは対話ができるから、虫のような扱いは違います。❯(e»e)
猫(e»e)
die hard ❮どんなに子供を可愛がっている親でも子供を四六時中見守ることは出来ません。
家に依って親の資質もまちまちで、資質の低い親は子供に道理を教えてないと思います。
それは貧乏、金持ち関係無しです。しっかりした親の子供は大抵しっかりしているのです。
父親が車を運転しないから、私は20才近く迄、私の目前の信号が青でも車が左折出来る事をよく知りませんでした。
それでもよい筈です。
子供は目前の信号が青であれば安全だと思って横断歩道を渡るものです。無知な私も車に轢かれた事は一度もないです。
けれどもある程度年が行ったら知っていた方がよい事って多々有ると思います。
うちの親達はあからさまな不利に難癖をつけるだけで、道理は何も教えられず的も得ておらず、相当な失敗をしても全く注意されないこともしょっちゅうでした。
そして極々子供の頃だったら、「怖い。」という感情を適宜持っていなくてはなりません。
父親は要所で核心をつく助言もありました。
しかし信長はその裏をかいてばかりでした。
東京(家康)・新潟(謙信)ルートで岐阜に入った私は判る人には判る厭<イヤ>さを持っていたと思います。
岐阜の担任の名物女教師が信長&平家贔屓<ヒイキ>であったせいなのか、何ゆえか私にも尽力してくれ私は結構岐阜で楽しく過ごせたのです。
ただその頃から絵に注目されるのは心外だった。又、その頃から皆がしていることを自分だけしなくても平気だった。信長、武蔵が居なくても元々強かったんじゃないかと考えるのは間違いで、平気だったのは少々自閉気味だったからでしょう。ハッと我に返った時に弱かったです。
やはり平家贔屓なのかクラスメートの織田くん(仮名)が、須<スベカラ>く私の父親の裏をかいていたのは流石だと思います。
父親は平清盛が拓いた神戸生まれなので檀ノ浦リスクが有るし?武蔵色も。宮本武蔵は美作<ミマサカ>(岡山)、或いは播磨(兵庫)生まれという二つの説が有ります。
清盛や武蔵よりは、信長の方が将軍ネットワークではありますもんね。その代わり天下布武ですからね。
私、勢い余って西宮で嫌いな子にケガを負わせてしまいそうになったことすらあるんです。私がケガをさせずに済んだのが西宮の力量です。更にそんなことお互いに誰にも話さないのに陰気なその子は暫くしたら人気者に成っていました。それも西宮の力量です。宮本武蔵は最強だと思います。
東京生まれの私と新潟生まれの弟は西宮に勝ちたい、強くなりたいと願っていたに違いありません。私は凄く願っていて、独りでもアスレチックな遊びやボール遊びで毎日研鑽し、夏にはプールにも通いました。そしてその日も高さ1.6m位の金網のフェンスの4cm位の幅の枠の上を綱渡りし、建物の二階位の高さのコンクリートの小屋の上に上がったのです。そして今日こそは飛ぼうと思い、かなり勇気が要ったけど飛んじまった。股関節と膝関節が砕けそうでしたが、正直、超緊急時には子供でも二階では無駄死にをして欲しくない。赤ちゃんも独りでおるちゅ番ではない限りは布団で包むなどして。
でも私がしていたことはそれだけじゃなく、四階の屋上の水道タンクの上にも上がっていたんですよね。それは屋上の真ん中に在ったわけではないし、これ、独りとは限らなかったんです。
友達にケガをさせそうになった事、二階から飛び降りた事、屋上で危ないことをしていた事、この三つを思い出すと目を固く瞑<ツブ>ってしまいます。野蛮で原始人のような感性の為に死にそうになったこと。これは誰のせいなのか。信長のせい、武蔵のせい、私の自閉的判断のせい、そして親のせい。他にも独りで危ないことをして視力や聴力を失いそうになったことも有るし。そういうことは私だけではないかも知れないけど。次の話も本当に身の毛がよだつ。読みたくない人は読まなくていいです。私は左手の指2本、吹っ飛んだも同然の心片輪なんですよ。強の扇風機に指が入って骨が丈夫だっただけ。その時ズタズタの2本の指を見て、母親がオキシドールとオロナインで治してって言ったのは、忌まわしくて発狂寸前だったからですけど、本当にそうさせられたのは、骨が残って指がくっついていたからでしょう。でも私はそんな極道一家な経験、向いてなかったんですよ。大塚製薬のオロナインは殺菌力が高くて優秀な薬ですけど、心の傷までは。
平家の疑いが掛かる母方の祖父。毅<ツヨシ>さん。
小説化された医師とは血縁が無い。
医師は戦後渋谷に住んでいたらしい。
もう一人。
家では父親と私が比較的目が大きいと思うのですが、昔から父親は時々「目が大きいのは誰に似たんじゃろう。」と口走っていたのです。よく考えてみたら久志<ヒサシ>さんのことかもな。久志さんは父方の祖母の弟で、二十才そこそこで肩から腰までが真っ二つになって戻ってきた人なんです。布に巻かれて。士官学校の制服を着ている写真を見たような気がするんだけど、プロペラ機の接近に気付かなかったらしいです。
気持ちの悪い話をして申し訳ないですが、プロペラは目に見える以外にも商業施設の冷気の漂う所の裏側に潜んでいることも有りますので気を付けて頂きたいです。
久志さんは恐ろしく目の大きい人でしたね。平家の疑いが掛かる毅さんも目が大きいのですが、つり上がって目付きの悪い写真が殆どです。二人共とても若い写真です。
或る種の外国人が私を見て、悲しくなったり憐れんだりするのはそのせいかも知れません。
久志さんや毅さんだけでなく、多くの若い方々がもっと丁寧に生きたかったことでしょう。
思うことは沢山有るのですけれども、軍事的知識、訓練、経験の無い人が戦地へ赴いたら、戦争に遭ったら、死ぬ確率は低くないということです。❯(e»e)
die hard 毒親編 ❮母方の祖母は毅<ツヨシ>さんの弟と再婚します。毅さんの弟は邦衛<クニエ>さんといい、器量より理系の勉強が出来た人でしたが、時折荒ぶっていたらしいです。
瀬戸内海の父方の叔父さんは、沢田研二っぽい顔をした遊び人風で、私も弟も沢山遊んでもらいました。叔父さんが定年迄勤めていた島の工場で、邦衛さんは大阪の人ですが、一時期工場長をしていたとか言っていました。島の話はバカくさい話ばかりですよ。
父親も叔父さんも叔母さんも瀬戸内海の小島では、島から島へ泳いで渡っていたらしいです。遠泳とは呼べない距離に島は散在しますからね。私も子供の頃は水と同化するかのようにあちこちに泳ぎに行ったり船に乗っていたので水慣れしていました。
それが仇となって小学高学年の頃、和歌山恒例の台風直撃の夏の日にも家族で白浜へ泳ぎに行ったんです。私は本当に深く考えることが出来ない程満ち足りていたようで、高波の中、潜水しちまったんです。
白浜の海はとても綺麗で砂も真っ白でしたからね。
沈んだまま、波が引いた時に、80cm位沖に引っ張られた。海だから半端な力ではなかった。海面迄も80cm位有るだろう。私がこのまま死んだら、母親の精神は持たないだろう。西宮にも示しがつかない。今際の際でこの二点について考えた。もし80cm浮上する迄にもう一度波が沖に引かなければ私は助かるかも知れない。この最後の息を大事にしながら着実に泳ぎ上がらなければ。
すると沖へ引いた水量分、陸側の水量が減り、海面が凹みよった。私は一度ストンと立ち上がって、今の出来事を砂浜の肉親や幼い妹に話さなければと、一心不乱に泳ぎ帰りました。想像通り母親は金切り声を上げて私の話を遮りました。
弟はあの日、潜水をしなかったのかな。
邦衛さんは私の母方の祖父の弟なので、私達は邦衛さんとはしばしば観光地へ赴きました。私は子供心に邦衛さんが不憫でした。美しいが愚かし気<ゲ>な兄は若死にし、その未亡人と結婚する訳ですけど、母方の祖母は藤氏っぽい感じです。こいつは許さんでしょう。
でも47才で、心臓を悪くして長生きはしなかったんです。私は赤ん坊で覚えていないです。
少しだけ欧米人風の顔付きをした私の父親を気に入って、娘を嫁がせた辺りが藤氏かと。
この母方の祖母と娘二人は卑屈に邦衛さんと暮らしていたと思います。祖母の姉が医師と結婚していたからでしょう。後に長男が生まれましたが、心から楽しかった日は無かったことでしょう。邦衛さんにも学歴は有ったから、卑屈な兄家族を仕方なく面倒看たのでしょう。邦衛さんが亡くなった時、憐れでお葬式にも行けなかった。それなのに私は私で、邦衛さんが収集していたカメラや時計などの遺品に貼られていた名前やイニシャルの手作りシールを悉<コトゴト>く剥がそうとし、母親に、「なんでそんな心無いことするの? 死んだ人が一所懸命やったんだから、止めてちょうだい。」と怒られました。どっちやねん。あんたがいつも邦衛さんの悪口を言っていたからだよ。
いつかやはり小学生高学年の頃、海沿いの断崖絶壁へ家族プラス邦衛さんで旅行に出掛けた事があり、脳天気な私は崖の極みに立ち眼下の荒浪を見下ろしたりしていたんです。弟は一、ニ度で引っ込んだと思います。私と邦衛さんが数回それをしていたら、母親がすっ頓狂な大声で、「崖に寄り過ぎて岩が欠けたらどうするの⁉️」と叫び、私はテレビを見ている時に説教されて以来その声質が大嫌いだった為、驚きと腹立たしさから崖から堕ちそうに思いました。実際はぐらつきもしなかったけど、堕ちそうだったのです。邦衛さんは癖である目玉をギョロギョロし始め、私は当時から家族を太え野郎だと思い始めていたので「塩を撒け!」というような不快な気分で口も聞かずに帰宅しました。
最近Louis TomlinsonのWALLSという曲のpvを見たら、私が200回は見た夢とよく似た画像が有り、誉めたらいいのかけなしたらいいのかわからない気持ちになりました。私がよく見ていた夢は悪い夢で、絶壁の上2m、海面迄8m位に位置する狭い突起に座っているのです。私は自閉気味でものぐさなので、アライグマやロッククライミングのように上に上がっていこうか、当たり障りの無いような方法で海面に堕ちようか2、3時間迷っているのです。どっちもめんどくせーなーと思うところで目が覚めたものです。
もうひとつ、200回は見た悪い夢が有り、それはdie hardに書いた事の複合型で、高い建物からダイレクトに海面に落下するというもの。やっぱりあの日あの時私は死にそうになっていたのだ。
私達は自らの性格、或いは他人に向けたお節介や老婆心で、命を落としたり損をしないようにしなければなりません。❯(e»e)
syndicate(e»e)
sofisticate(e»e)
意味深な笑い(e»e)
無気力(e»e)
風来坊(e»e)
頽廃的な方を選ぶ☆
Good Bye Today Until The Day We Meet Again.